水平線の距離は、水面からの視点の高さの平方根に3570をかけることで簡単に算出できる。僕の目の高さを1・7メートルとすると、僕が水面に立った場合の水平線までの距離は、4654・7メートル。意外に近い。
今、『言語』が発刊しようとしている。発刊にあたって、直接の契機として僕の意識が位置づけているものは一枚の葉書だ。「2015・10・8 新潟県妙高高原にて」書かれたその葉書はこう始まる。
大谷さんが編集・発行する「ナニカ」をやってくれないだろうか。
その時、そこから先は、ただの大きな海が目の前に開けているだけだった。そうして、ともかくそこから見える一番遠いところ、水平線をめがけて進んだ。
葉書を書いたのは小林健司さんで、もう一人の編集者となった。毎週水曜日に編集会議を行った。毎回六時間ほど二人でひたすら話し、聞き、黙り、書きとめた。膨大な量の「ナニカ」を費して、ほんのすこしずつ進んでいった。
4回目にタイトル『言語』が確定した。葉書を受け取った時、僕たちは波打ち際にいて、遠い水平線を見ていた。目標物は何もない。使えそうなものとしてただ「ナニカ」という未定の感触だけがあった。そこから進んだ。ここが、僕たちが今、もっとも遠くまで辿り着いた場所である。たとえ人が一時間で歩ける程度の距離であったとしても。
大谷 隆
書いた人はじぶんが捉えた世界を紙の上に固定し、そこではまるで時間が止まったかのようにすべてのものは作者がつくりだしたままの状態を保っている。純粋な意味での「読む」ことは、そんな時が止まった世界を勝手に動かしたり壊したりしないように、一つ一つの位置や手触りを確かめながら見て周るのに似ている。
じぶんがつくりだした世界を見てもらうこと、それも前から後ろから上から下から、じっくりと見られることは怖くて恥ずかしい。と思っていた。
それはたぶん、そのままの自分を見られたら笑われたり、間違いや改善した方がいいことを指摘されたり、大切ななにかを踏み荒らされたりしてきた経験が積み重なっていたからなのだと思う。
けれど、一度じぶんが書いたものを「ただ読んでもらう」経験をしたとき、それはとても嬉しいことなのだと知った。そういえばぼくは、前に似たような経験をしていて、それはじぶんの話を「ただ聞いてもらう」経験をしたときだったのを思い出した。
そうして、少しずつ自分の世界を言葉にし続けていったとき「このままどこまで行けるんだろう?」と思うようになった。「どこまでも続く大草原を歩き続けるように、立ち止まる場所を決めずに一歩を踏み出し続けることができたとして、ぼくは何が書きたいだろう?ぼくは何を書くのだろう?」そんなことを思うようになった。
そんなものを掲載する場所として『言語』が発刊されようとしている。「役に立つ」とか「面白い」とか「政治」とか「経済」とか、世の中の既存の価値観のどこにも回収されないで、ただ全力で長い距離を書いた人がいて、それを読むことができる場としてこの空間がある。
最初から目的地や狙っているルートはないから、原稿の依頼は一切しないことにした。その人が心から書きたいものを自分の足で歩み続けながら形にしていくことに対して、ぼくたちはそのきっかけさえ直接的には与えることはできない。
しかし、書き上げた原稿を寄稿していただけるなら、編集人であるぼくと大谷さんの力の及ぶ限り、その文章を「ただ読む」ことを約束する。まだ見ぬ誰かの文章が『言語』に並ぶことがあれば、これほど面白いことはないと思う。契機をつかんで寄稿にいたる人が現れることを心から願う。
冒頭の強敵の能力には名前があって「ザ・ワールド」という。その敵は、既に存在する世界の時間を止めることしかできなかったが、ぼくたちは時が止まった世界をつくりだすことができる。
漫画よりも漫画みたいな力をぼくたちは既に持っている。
小林健司