読者からの感想

読者からいただいた感想を掲載します。ありがとうございます。

『言語5』の感想

「これってさ 前編」(雑誌「言語5」掲載)感想

昨日、やっと言語5を読み始めた。まだ「これってさ 前編」(大谷隆)しか読んでないけどとりあえず感想。

 

一読して、内容よりも文体が気になって仕方ない。新話体というか、まあそんな感じ。話している感じで書いてあるので、読みやすいかと思いきや、全然読みやすくない。結構疲れる。こういう文章を読み続けていると、いつか読みやすい文章になるのかもしれないけど、新しさ故にか、いくら口語っぽく書こうと脳の普段使ってないところを使わされてる感じがして疲れてゆく。別に、だからいけないという気は全然無くて、読み疲れはするんだけど読んで行きたくなる。

 

読んで行きたくなる理由の一つに、保留されているということがある。これは書き言葉というより、話を聞いているときの感覚に近くて、この人は一体何を言おうとしているのか、というのがあまりわからないまま進んでいく。表面的には面白い小咄の連発があるので次へ次へと読める感覚もあるけれど、いやいやあんたなんか言おうとしてるでしょって雰囲気が消えないので、どこで突き当たるのかわからないこの人の思想が気になって読み続けていく。疲れて一旦雑誌を手放したときの感覚は話の続きを聞きたくなってちょっとそわそわするのに似てる。で、一応この「前編」の最後それっぽいことが書かれている。でも、でも、「前編」ってあるからには「後編」があるわけで(きっと)、でも後編へのさほどの予測も効かないまま宙ぶらりんにされる。

 

あと、引用の仕方がおもしろい。引用って言っていいのかって感じやけど、普通の論評ではみたことがない引用。人と話してて、誰々が何々って言ってたあれね、みたいな感じでやってくる。引用って自分でやると結構気を使うのが、さらっと書いてあってびっくりする。さらっと書いてあるからと言って、著者がどんな気分で書いたかは不明だけど、やっぱりびっくりする。

 

まったく内容に触れれないんだけど、雰囲気のインパクトは残る「これってさ」小説なの?

 

山根みお(ブログより

『言語3』の感想

「書かれたものはその時点での書いたものの死体である。第三回」を読んで

 「言語3」を週明けに読み始め、「言語2」にさかのぼり、「言語1」がどうしても見つからず、ちょっと考えているうちに、返信しそびれていました。少しだけ読後感を伝えさせてください。

 

 「言語」は、大谷さんが言語というものをできるだけ俯瞰して、かつ緻密に描写しようとしていて、私など理解するにはとっても苦労する難しい文章なのに、なにか長い詩を読みおえたような気分でした。そのギャップに、言い知れぬ厚みと、ちょっと鼓動が早くなる感じを味わっています。

 

 なぜ「言語2」や「言語1」にさかのぼろうとしたかというと、「書かれたもの」に代わって「文字」という言葉が頻出するようになってから、私が読みながらイメージする景色ががらりと変わったからです。

 

 これは、まったく個人的なことで、それこそ私の言語ネットワークへの動揺が、「書かれたもの」と「文字」とではこれほど様相が違うのかという驚きでもありました。

 

匿名

『言語2』の感想

「『言語2』発刊に寄せて」と「『言語1』を発刊してみて。」を読んで

 この文章は、2016年6月25日(土)の朝から書き出して、お昼にまとめているというものである。今日の夕方から、大谷さん、けんちゃん、そしてゆくくるのさとしさん、じゅんちゃんにお会いする前に、書いておこうと思うのである。

 

 「言語という場所に自分全部を投げ込んで遊びたいと思っています。」という言葉。言語という場所に自分全部を投げ込んで遊ぶということは、非常にワクワクすることである。言語というもの、言葉というものには、とても言葉にはしつくせないような魅力があり、深さというか、底知れないものがあるなぁと感じている。「『言語1』を発刊してみて。」を読んでみて、自分は胸の高鳴りを感じた。「こちらこそうらやましい」という言葉を目にした瞬間、からだがぶわっとした。言葉が運んでくれたのだということ。ここに書かれた言葉というのは、言葉が自分という存在を運んでくれたのだということである。「けんちゃん、言葉を届けてくれてありがとう。」これまでには経験したことのない、体験を、その渦中にいます。これほどまでに言葉が届いたという体験を、こうした場所において経験したことはないように思います。言葉が自分を届けてくれたということ。自分という存在が、言葉を通して現れ出たということ。大谷さんのいう言葉の先着性というものは、時間と空間を超えて、広がっていくのだということ。とそんなことを感じたのでした。

 

「言語」という広場の上で、言葉を使って遊んでいる。(中略)おそらく、その射程はどこまでも引き延ばすことができて、生きること自体が遊びだと言えるはずだ。

→引き延ばすことができると同時に、意図するしないに関わらず、自ずから広がっていくものでもあるのかなと思いました。人生は、生きることは、遊びだということ。壮大な遊びを、自分も遊び仲間として、一緒に遊びたいです。

 

 今回の『言語2』が届いてから、この数日の間の中で、「言葉が届けてくれる」のだということを強く感じました。丁寧に届けられる言葉というもの。言葉を通して、その人に出会うということ。そこには、確かに言葉が届けてくれるものがある。

 

「自分の最先端を書く」ということ。

 

「書かずにはいられない」のだということ。

                                      

                                      以上。

2016/06/25

濵田恒太朗

『言語1』の感想

書かれたものはその時点で書いたもの死体である。第一回を読んで

この「死体」を使った言い方をした時に僕はいつも、歯がゆさを感じていて、本当はもっと直接そのことを言いたいのにと思っている。本稿の動機はここにある。この死体を使った比喩であらわしている何かを、それそのものとして追うことでここに何らかの痕跡を残したいと書き始めている。(P.21)

 

→直接に言い表したいけど表せない「何か」。でも、確かに自分ではその「何か」の存在を認識している。認識しているというまでいかなくとも、確かにあるという感覚はあるのだということ。「書かれたものはその時点で書いたもの死体である」という言葉を読んだ時、自分にとっては書かれたものはどういう存在であるかということを考えた。

 

「本当」を追う前に、比喩としてではない「死体」そのものの側に立つことはできないものだろうか。比喩であろうと「死体」と書かれた表現自体からその表現の「本当」のところは見えないだろうか。死体の気分になるということである。(P.21)

 

→逆転の発想というか、比喩として言い表している言葉によって、そのものの正体を追跡していく、探し求めるという作業というのは、とても興味深い。まずはその「何か」を表している比喩というものを手掛かりにするということによって、これまでは到達できていなかった先に進むことができるのだということ。自分にとっての比喩としての死体が何なのかということを確認するということを通して見えてくる視界というもの。

 

映画の中の物語内世界には「生きていない」観客だからこそ、物語内世界で死んでいる被害者に通じる視点があるのではないだろうか。(P.23)

 

→対照的な存在であるからこそ、共通項があるということ。死体の気分とはどういうものか。

 

死体、すなわち冒頭に書いた「書かれたもの」、表現された表現物の気分になることができるからだ。書かれたものというのは、なんとかして、自分がなぜどのようにして何を誰に書かれたのかを読まれたいと切実に思っている。(P.23)

 

→書かれたものがどのように思っているのかという視点に立ってみると、まったく違った視界が拓けてくるように思う。書かれたものというのは、読まれることによって初めて存在がはっきりするのだということ。それまでは存在していてもしていないのと同じである。書かれたものというのは、まるで生きもののような存在であるというイメージがふと湧いた。

 

書かれたものはいったん表現された以上、自分自身では自分を追加したり、更新したり解説したり、自分の言い分を何一つ新たに表現できない。この死体にとって、読まれることはどのようなことなのか。(P23-24)

 

→読まれるということは、死体である自分という存在が見つかる、確認されるということであり、書かれたものは読まれることでしか存在し得ないのではないだろうか。読まれることを通して、存在するようになり、読まれる度に息を引き返すようにも思える。自分の書いた文章を読むということは、︎他者としての自分という存在に出会うということでもあるということ。だから、書いたものは死体であり、もう自分ではないのだということ。

 

単語の意味を知るということについての限界(P.25)

 

→辞書で調べていくと、ある言葉の言い換えは、その言葉の言い換えになっているのだというどう堂々めぐりというか、辞書に含まれる語彙の中でしか、その枠を超えて表現されることはないのだということ。

 

一人の人間が持つ言葉の集合体も、意味というレベルにおいては、一つの閉じた世界である。(P.29)

 

→人間も1つの辞書であるということもいえようか。ただし枠、限界を超えうる存在である。

 

意味の限界は、単語の意味を超えて、大きなまとまりとしても生じうる。(P.29)

 

→単語という単位においてさえ意味の限界がある以上、必然的に生じうるのだということ。

 

文法が適切に使われていれば必ず意図したように読まれるという保証は、言葉の意味と同様に、やはりない。(P.30)

 

→非常に不完全である言語という存在であるにも関わらず、人はなぜ言葉を使って表現したいという絶え間ない欲求を持っているのだろうか。自分もそうした言葉で表現したいと思っている、表現しようとしている一人である。

 

ある言葉の意味するものを他者と共有することには限界があることは少なくとも確認しておきたい。同様に文における文法というものの限界もある。意味や文法だけによってでは、読むということについて抜け落ちてしまうものがあるのだ。(中略)意味や文法だけで進んでいった先には、断崖がある。それをどうやって飛び越えるか、というところに読むことの本当の姿がある。(P.30)

 

→「意味や文法だけによってでは、読むということについて抜け落ちてしまうもの」。小林健司さんの文章ともどこか通じるものを感じる。「見落とされているもう半分の世界(P.5『言語』)」というもの。

 

各自が独自に張り巡らせている言葉の相互の連携からなる集合体を言語ネットワークと名付けてみる。その言語ネットワークは、生まれてから今までその人が経験したことをその都度取り込みつつ形成されていく。言語ネットワークは人間の意識というものと強い相関をもっている。意識に対して言語のネットワークが覆いかぶさっているのだ。(P.30)

 

→言語ネットワークの中心にある意識とは何か。

 

言語ネットワークは、新しい言葉を知ったというような場合には新たに言葉が追加されるのはもちろんだが、常にその言葉同士の距離を動的に変化させ続けている。(P.31)

 

→「言葉同士の距離を動的に変化させ続けている」というのは、非常に的確な表現でありとてもイメージがしやすい。

 

比喩とはこのように言語ネットワークによって説明がつく。(中略)ここまできてわかることは、実は言語ネットワークにとって、それが比喩であるか「本当のこと」なのかにそれほど大きな違いはない。言語ネットワークというもののなかで、短い距離のつながりの経路を使うか、回り道をしているかといった程度のものである。回り道をするのは回り道をするなりの理由があって、よりイメージを鮮明にしたり、その回り道の近隣にある言語ネットワーク上の言葉を経路ににじませたりできるからだ。それによって現れるイメージは、短い経路をたどった場合と異なる。たとえ意味として同じであっても、イメージが異なり、言語ネットワークの経路が異なる以上は、異なる表現であるとも言える。ただ、その言葉のつながりが比喩であるかどうかは、言語ネットワークによっては、特別な違いがあるわけではない。(P.32)

 

→上記の抜粋部分につながるところであるが、すべての言語表現というものが言語ネットワークというものを通すと、その関係性が非常にクリアになるように思う。

 

人間の持っている言語ネットワークは辞書ではありえないようなつながりさえを可能にする。(P.32)

 

→辞書においては、そこに記されている意味や表現には限界があるというか、辞書という枠であり制約のもとで規定されている。しかしながら、言語ネットワークというものは、そのような制約がなく、広がりは無限大であるということ。言語ネットワークは、非常に創造的な営みであるということ。

 

ありていに言えば、無理やり作った。しかし、実際にこうやって表現された途端に、「空」と「かゆい」が無理やり近いところに移動させられて結び付けられて目に飛び込む。そして、いったんそういう位置関係に置かれうるところを経験していしまうえば、言語ネットワークはその経験にしたがってその瞬間に変化をはじめる。そうして変化してしまった言語ネットワークを持つ人にとって、ある「空」を見上げたとたんに、ふと「かゆい」が連想されてしまうかもしれない。(P.33)

 

→言語ネットワークにおいては、一度認識した言葉と言葉のつながりというものは、つながりとして認識されるようになる。認識された時点で、言語ネットワークはそのかたちを変えていく。常に変化し続けうる存在としての言語ネットワーク。

 

この言語ネットワークと意識との相互作用とその不条理とも言えるゆるやかさが新たな比喩や新たな表現を吐き出し続けている源泉である。新たに吐き出された表現を目の当たりにし、イメージを喚起させられ、そのイメージから再びその表現を引き出すようになってくる。そうして繰り返し意識と言語ネットワークとの間でこの言葉のつながりが行き来することによって、この新たなイメージは、誕生した時の衝撃を失っていく代わりに、言語ネットワークに穏やかに居場所をつくりだして定着していく。(P.33)

 

→言語ネットワークという存在は、無限の広がりを持った大海原であるということ。発刊にあたって「水平線までの歩み」の文章が頭をよぎった。

 

言語ネットワークは、太古の時代から連綿と続く、言語の表出史によって増殖、変化し続けてきた。その時代に生きている人の言語ネットワークは、それ以前の時代から引き継がれた集団的な基礎を持っている。もちろん言語ネットワーク同士を厳密に複製することはできないから、引き継ぐといっても人間の意識を介した不完全な複写程度のことではある。(P.34)

 

→このように言語を捉えるということは、非常に興味深い。

 

逆に言えばある時代の人の言語ネットワークはその時代という制約を受けている。(P34)

 

→ある時代の英雄も、生きる時代が違えば犯罪者であるかもしれないということ。

 

環境は表現を経由し、言語ネットワークに作用し、意識を変質させ、結果、人をも変えうる。(P.34)

 

→言語は、その時代その土地の風土(環境)によって、規定されているということ。そのことを踏まえた上で、言語との関係性を持つということは非常に興味深い。

 

語順に従って、立ち上がる情景や気分の「動き」が異なっている。この情景や気分とその動きの総体が「イメージ」の実体である。このイメージを見落として読むという行為は成立しない。言語ネットワークという人間意識そのものに覆いかぶさった神経回路のようなものを刺激することで照射されたイメージが、意味と文法からだけではすくい取れない何かをすくい取れる可能性を持つ。(P.37)

 

→時間と場所のどちらが先に規定されるかということ。普段はなんとなくしか、ニュアンスの違いをあまり意識していなかったが、ここまで精密に言語ネットワークを通して、見えてくる言語の視界というものの片鱗の片鱗に触れたような気がした。       

                                      以上。    

 

2016/04/30 

浜田恒太朗  

『言語 Ⅰ』人と言葉の関係論 第一回 を読んで

 早くこの続きを読みたいというのが一番の感想である。以下、気になったフレーズや言葉に応答するかたちで感想を書いてみたいと思う。

 

ある人が書いた文章を読むとき、目の前の人が発した声を聞くとき、(中略)言葉が指し示している「意味」を正確に理解しようとするのが正しい姿勢だと信じていた。(P.5)

 

→くにちゃんに出会い、“きく”ということに出会う中で、話し手の言葉をそのままに辿っていくこと、話し手に寄り添うような、伴走するような姿勢で、聞き手としての自分と話し手との境界線がなくなっていくような、聞き手である自分がなくなっていくということに自分自身も衝撃を受けました。その一方で、普段の生活の中で他者との対話や会話など話しをするというときには、どうも「意味」を正確に理解しようとする自分がいます。“きく”という姿勢においても、言葉に反応したり応答しようとしたりする自分という存在が立ち現れます。ミニカンのような宣言をすることによって結界を張った時間と空間の中ではない場において、日々の生活においての難しさというかジレンマを感じたりしています。

 

(前略)言葉が指し示している「意味」を理解するのは重要なことだ。しかし、どんなときでも表現される言葉は一人の人間からしか生まれないという事実に出会ったとき、言葉の「意味」だけをたどることは、世界の半分しか見ていないのと同じだということに気がつき天地がひっくり返るような衝撃を受けた。見落とされているもう半分の世界は、ある言葉を書いたり発したりした本人がどこからそれを見て、どんな感情を持ち、どんな身体の感覚から、その言葉を撰びとって表現したのかという、言葉が指し示す「価値」という視点だ。(P.5)

 

→「意味」とは違うもう半分の世界である「価値」という視点という表現というか、捉え方に非常に興味を持ちました。確かに言葉で表現されていることというのは、書き手が書きたいと思ったことを書いているわけだけれども、その書き手の内側で起こっていることや抱いていることなどのすべてを表現しているということでは決してない。そうした中でも、今の自分にとって最適であると思われる言葉を選びとって表現するのである。選びとってもしっくりこないときには、発した後の違和感として残ったりすることも…。だからこそもう半分の世界というのは興味深いと思います。

 

人の存在と関連した「価値」ではなく、その場で重視されている「意味」(P.6)

 

→人の存在と関連した「価値」というものがあるにも関わらず、今の社会においては、まるでそうしたものはないかのように、言葉として表現されたもののみが評価される傾向にある。経済活動においては、人の存在というものはできるだけないものとされ、人の存在と関連した「価値」なんてものは、言葉に表現されないものというものは、まったくもってないものとされている。なにものにされるのは、取り扱う側が、支配したいと思う側が手には追えないものであるということなのだと思う。でも、そうしたことによって失われてしまっていることがあるように思うのである。見えないものを言葉を通して見るということは、これかれの時代においてはもっともっと大切なものとなると思うし、そうしたものに価値を見出す人が増えてきているように思うのである。

 

吉本の言語観には、言葉の発生や言語学の積み重ねてきた歴史に通じる視野から、人間存在をどう見るかといった哲学に通じる視野までが一体となって含まれている。そして、その言語観は、(中略)人間存在の全体性と分かちがたく結びついた表出あるいは表現として見ることを土台にして成り立っている。(P.7)

 

→非常に広い射程から言語というものを捉えており、このような視点は非常に興味深い。

 

沈黙や言葉になる以前の心的な像も含めた言語的な活動が人間の意識と深く結びついている、あるいは人間の意識そのものだという視界ということ(P.7)

 

→言語的な活動といったときには、言葉になっていることという印象を持ちがちであるが、「沈黙や言葉になる以前の心的な像も含め」て言語的な活動としたときには、先ほどのような「人間存在の全体性」というものが非常に際立ってくるように思う。

 

一人の人が文章を書く場合には、(中略)文字による表現として固定化される。そこには他者からの影響はすでに受けた結果としてしか存在しない。対して、対話や集団での話し合いでは、人は時間と空間を共有し始めたときから影響を受けたり与えたりしているから、言葉は相互に影響しあった結果として形になっていく。だから、たとえば誰かが一方的に話をしていたとしても、言葉という視野から見れば、そこで表現される言葉は聞いている人の影響を受けて大きく変化しながら世界にあらわれていることがわかる。ぼくたちが人から聞くことができるのはいつも、そうやって相互に影響を受け合った結果としての音声だ。(P.8)

 

→音声とは、話し言葉と表現してもいいだろうか。ミニカンにおいては、音声である話し言葉が文字による表現として固定化される。ここで固定化された話し言葉というものは、それでも「一人の人が文章を書く」ことで表現された文字とは見た目上は同じだとしても、性質としては異なっている。

 

文字の持つ固定化され動かない性質と音声の持つ瞬間性と相互性は、それぞれの表現をできるだけ注意深く受け取りたい場合には、全く違う視界を要求してくる。書き手がどれだけ時間をかえようが、思い入れがあろうが、文章による表現では書いた人の存在は言葉の水面下に沈んでいるから、水面上に表れている文字しか見ることができない。(P.8)

 

→「水面上に表れている文字」からいかにして、「言葉の水面下に沈んでいる」「書いた人の存在」をたどっていくことが可能かとても興味深い探求したい点である。

 

人と人は相互に影響を受けあって一つの表現を形作っているという視界(P.9)

 

→言語的な活動を通して、相互に影響し合って私たちは生きているのだということ。

 

書き手だけにしか見えない景色を、文字として並んでいる言葉からできるだけ精密に読み解いていくことができれば、文学のように文字で書かれた作品の「作者の位置」を「はっきりと限定」することができる。つまり、表現された言葉の中には、その言葉が広く「意味」として指し示しているものと背中合わせに、表現した本人だけがたしかに持っている手応えのようなもの、つまり「価値」が存在しているのだ。(P.11)

 

→「表現した本人だけがたしかに持っている手応えのようなもの、つまり「価値」が存在している」このことは非常に興味深い。ちょっと断線するかもしれないが、書かれた時代が違った作品(文章・文学)を読む際においては、その作者の生きていた時代やその人物がどのような生い立ちで、どのような人々と交際し、思想的・宗教的なバックグランドはどのようなものであったのかということなど押さえることによって、そのような「価値」の片鱗に振れ易くなるということもあるかもしれない。「できるだけ精密に読み解く」ことによって、まったく違った視界が見えてくることがあるのだということ。

 

表現されている言葉の共通性をたどって、書き手と読み手の独自性が重なりあい、あたかもそれを直接見たり触れたりしているような現象が起こるのだ。(P.14)

 

→上記のこととも通じるところであるが、言葉の共通性と独自性というものが共存しているというか並存しているということが興味深い。

 

人間の存在が(中略)一つの個体だけで完結しない連続性を持っているのと同様に、言葉も同じように時代時代に生きる人々が積み重ねてきた連続性を持っているからだ。言葉を一人の個人に限定した結びつきだけで理解してしまうと、この歴史の連続性が抜け落ちる。(P.16)

 

→人間と言葉というものは、ともに生きてきたのだということ。歴史的な連続性の文脈において、言語というものを捉えるとより奥行きを増す感じがするのである。

 

全てを見渡せる視野を目指そうとするとき、ぼくたちは文法的な分類が言語に対してあとからルールをあてはめたものだという事実につきあたる。言葉はもともと「法」を持たず自由に表現される。時代とともにあたらしい表現が生まれるのは、どんな場合も法則通りに言葉が使われているわけではないことの証だ。(中略)決して言葉より先に言葉のルールがあるわけではなく、言葉が表現されたあとから人がルールを見つけていったのだ。文法を通して言語の本質に迫っていくときの限界は、文法自体が言葉をあとから追いかけて作られるという性質によって生まれている。(P.19)

 

→人間は、何かの事象を認識したり把握するために、そのものに名前をつけるということを通して言葉を与える。社会科学という学問分野においても、社会で起こっている事象が顕在化する中で、研究者が後追いで名前をつけたり、位置づけを与える。実際には、そのように社会的に認知される前からその事象はすでに起こっているのであるが…。こうしたことともどこか通じるものを感じる中で、言語は生きものであるというイメージがふと湧いた。後追いで作られるものというのは、すでに存在している枠、事象というものの範囲内において起こることのように思うのである。だからその枠をでない限りにおいては、いずれ限界というか、頭打ちになるということがあるように思うのである。

 

吉本は、(中略)名詞から感動詞にかけてゆるやかに自己表出性と指示表出性の度合いが変化していく傾向やアクセントとしてみている。(P.20)

 

→このようなグラデーションとして言葉を見る、捉えるという視点はとても興味深い。

 

                                      以上。

 

2016/04/27

浜田恒太朗  

言語1を読んでの感想

「言語1」を読んで感じたこと

 

 最初に「言語1」を読んだとき、頭に浮かんだのは「わからないままでいてくれてよかった」でした。普通「わからない」より「わかる」ほうがいいような気がします。でも、私にとっては「わからないままでいてくれる存在」が希望なのだと感じました。そうゆう私の底にある、私も知らなかった感覚を「言語1」は浮かび上がらせてくれました。

 

 ここまで書いて実は少し途方に暮れています。「わからないままでいてくれてよかった」を必死に説明しようとして、浮かんだ言葉をいくつか書き連ねてみたのですが、書けないのです。正確にいえば書けるのですが、最終的には手元から零れ落ちていくような、触れようとすると滑って触れないものに相対しているような感覚に襲われています。

 

 誰かに説明するためにではなく、自らに起きていることに正直になろうとすると、少しだけ落ち着くことができました。「わからないままでいてくれてよかった」ことをわかってもらおうとすること自体が、違うのかもしれません。

 だから、そのまま「わからないままでいてくれてよかった」ということばを書き手の二人にお送りします。

 

中川馨

「言語1」を読んで

P1~P38の言語について、大谷隆さんと小林健司さんが文字にして語っている。

 

 発行された4月に途中まで読んでいたけれど、どこまで読んだか忘れてしまい、最初から読む。

 

 この読む、は最初期待感を膨らませて読み始めたが、どうも私が欲しいと思っているものかどうか分からなくなり、けれど読んでみたいという読む気があって、読み続けて終わり、がっかりもせず、淡々と読み終わった感じがしていることを自覚し、もしかして、私はただ読んだのか~と思ってしまった。ただ読む、とは難しいと思っている。そして今回ただ読むを出来たとして、難しいと思っていたとなる。

 

 このことは、大谷さんが、「読む書く残す探求ゼミ」で言っていることで、ただの、ただはなんの意図もなく、文字を追うことだと解釈している。

 

 大谷さんは、このただ読む時の説明に、かなり時間を使って話す。これを言い当てるのに、それではない外堀を埋めるかのように、たくさんの例を持ち出して話していく。その一つ一つの例え話は、私にとって聞くのが、面白い。

 

 話を戻すけれど、私はただ読むのが難しい。大谷さんの話の中だと私は、読む物になんだか分からないけれど、期待しながら読むという読み方が多いのだと思う。そして、それに似合うものでなかったら、がっかりし、似合うものなら、満たされる。そして、この言語1は最初それだったが、後から変化したように感じられた。

 

 私には知らなかった木目の細かな世界の表出に、ある時は驚き、ある時はにんまりし、ある時は混乱し、と揺さぶられながら、ただ文字を追っていた気がするのだ。その時思ったのだけれど、ただ読むとは、無感情にただ読むのだと思っていたのだが、どうも結びつかない。ただ読むはただ読むで、感情は関係ないことが分かった。

読むのなら、面白いものを読みたいし、感動するものを読みたいと思う。つまりは、心が動く様を味わいたいものを読みたいのだ。

 

 今回、この読み方とは違う種の心の動きだった気がしてならない。またその違いについては分からない。今の時点では、これしか言えない。

初めての感じは、自分の過去の体験にはなかったことで、どう表現したらいいか分からなく、しばらくしたら、全然関係のない体験から似た感じを体験して、あ~これだったと思えることがあるが、そんなことがあったら言えるのかしらと思ったり、時間が経つと言葉として浮上してくるかしらと思ったり、今のところ不明だ。様子を見てみたい。

 

 次に、具体的に気になるところを記し、それについて思ったことを書いてみる。

 

~人と言葉の関係論~ 小林健司

P7 「自己表出と指示表出の織物」

 

 この「織物」が、強烈に焼き付けられた感覚になって、目の前が明るくなって、私の頭と目に見えるものが、一変したような、すごい強い言葉だった。

 

P9 「ぼくたちはまず、河口から川の中流まで歩みを始めていくことにしよう。文字で表現された言葉の本質をたどり切ることができれば、その先には、人と人と関わる中で発声される言葉の本質が続いている。・・」

 

 半身で、手を差し伸べられて、一緒に行こうと言われている気がして、川に沿って川辺を歩くような感が起こった。それまでは向こうか、どこか違うところを向いて語られているのが、急にこちらに目が向けられた感じがした。

 

~書かれたものその時点での書いたものの死体である。~ 大谷隆

 

 タイトルからして、なんだ!?と振り向いてしまう言葉がある。

「死体」、「刑事コロンボ」、「お好み焼き」、グラスではなく「コップ」、「飛行機」「風立ちぬ」言葉たちが私を呼んでいて、いちいち、なんだ、なんだと呟いていた。

 

P34 「環境は表現を経由し、言語ネットワークに作用し、意識を変質させ、結果、人をも変えうる。」

 

 分かったような分からないような、納得するような納得がいかないような、この言葉が感覚的には分かる感じで、思考的にどっかが、どうにかなって、そしてこっちに動いていくんやろうけど・・といったような感じだったり、列車の連結がバラバラで、レールが何本もあって、真っ直ぐすすめるのか~って私の頭の中でなってる感じ。それでいて、この文章を手放せない感じ。

 

P34 「比喩の危険性」<読む書くこと>&<話す聞くこと>

 

 危険、という文字でハッとなる。

 <読む書く>は、2次元で、<話す聞く>は3次元だと私は思う。

<話す聞く>は、空間にある言葉で、それを文字として紙に書くと、2次元になる。

大谷さんが言うのは、恐らく3次元から2次元の混同なのかな、と思い、微細なところの明示があることに、気がつくことになった。これは面白い。

「読む書く残す探求ゼミ」の時間でやっている一つに、丁寧に時間を過ごすというところが、私自身が企画実施してるグループと似た時間の過ごし方、つまり丁寧に、というその行為のみが近いものだと思っていた。

これももしかしたら危険という言葉が当てはまるか・・などと何回か、スタートから進んでいき、またスタート地点に戻って始める作業を繰り返している。

 

かぜのすけ

発行前の感想

ここに記しておきたいと思うのである

 『言語』の発刊ということをFacebookの小林健司さんの投稿を見て知った時、気持ちが高鳴ったのを覚えている。一方で、「いいなぁ」「自分もやりたいな」「うらやましいな」という、自分のやりたいと思っていることを、一歩も二歩も先に実際にかたちにしていっているような、先越された感と言ったら語弊があるが、そんなこんなのすべてをひっくるめて、面白いということは自分にとっては疑いようのないことであった。

 

 なぜならば、けんちゃんの見ている言葉の視界というものをとても興味深く、自分もどこか何か通じるものを見ているようなことを勝手に親近感を持って感じていたからである。ちょうど一年くらい前の、2015年5月の連休に初めて出会って、その後東京で二度、そして一度のメールでのやり取りという瞬間、瞬間の出会いであったのであるが、自分自身はどこか惹かれるものを感じているのであった。共通のつながりである橋本久仁彦さんに出会ったのは2013年の1月のことであった。そこで“きく”いうことに、日本語の、言葉の味わいというものに、いかに自分がきけていないかということに、出会ったのであった。それ以降、自分自身の中で“きく”ということを通して、言葉であり、言語というものへの興味関心というものがより一層高まっていったことを覚えている。“きく”ということは、話し手の言葉をそのまま辿って、その人に寄り添い、自分という存在を消して話し手と一体になるということであり、言葉の中でもそれらは話し言葉であった。

 

 こうした話し言葉と並んで、書き言葉というものがある。けんちゃんが大阪で開催している「読む・書く・残す」探求ゼミというものは、なんだかもう直感的にタイトルから惹かれるものがあった。そこはまさに書き言葉を扱っている場なのである。そしてそれを一緒に主催されている大谷隆さんという存在を、けんちゃんに会った時にお話を聞いていた。ぜひお会いしたいという気持ちであるのだが、なかなかタイミングをつくることができずに今に至ってしまっているのである。

 

 今は『言語』が発刊されたということで、注文をして到着するのを待っているタイミングであり、HPに書かれていたお二人の「発刊に寄せて」の文章を読んで、自分の考えていたことにも通じるようなことが書かれていて、つい思わずこうして書き出してしまった。

 

 書くということは、非常に興味深く、いくら書いても書きつくせないにも関わらず、でも書かないとその先に広がる世界を見ることはできないのである。だからこそ、今の自分というものを通して、書くということをすることによって、今の自分では見えていなかった地点へと、今の自分とは違う世界への旅路へと進むことができるのだと思うのである。ぜひ、『言語』に自分の書いた文章を寄稿してみたいと思ったのである。

 

 このように書いているうちに、実家に連絡をしたところ『言語』が到着したとの確認を取ることができた。明日はさっそく手にとって、そこに書かれた文章たちに出会ってみたいと思うのである。今からもうワクワクというかうずうずとした気持ちでいっぱいである。さぁ、そこにはどんな言語の視界が、世界が広がっているのか今から楽しみである。

 

2016/04/12

浜田恒太朗


『言語』編集兼発行人

大谷 隆(おおたにたかし)

言葉の場所「まるネコ堂」代表。宇治市出身。宇都宮大学で機械工学を学んだものの博士課程で研究に挫折し中退。文章の仕事をしたいと思い、企画編集会社、NPO出版部門で勤務。その後独立。生きている時間の大半を考え事に費やしつつ、寄ってたかって本を読む「まるネコ堂ゼミ」、「読む・書く・残す探求ゼミ」等を行う。    

ウェブサイト:まるネコ堂

小林健司(こばやしけんじ)

愛知県春日井市出身。大阪教育大学在学中に教育関係のNPOの起ち上げに関わり、卒業後も含めて約十年勤務する。ソーシャルビジネスの創業支援をするNPOでの勤務を経て独立。2016年11月、滋賀県北比良にセルフビルドで建てたログハウスに拠点を移す。響き合いながら響存(きょうぞん)している人と言葉の探求家。

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Twitterにて、定期的に言語に掲載した原稿の一部を呟いています。

 


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